HOME  
    仏教徒の観点からヘルス・ケアの決定   
  平成十七年五月二十五日

ワシントン大学医学部医学史・倫理学科 
 
   

 池口惠觀でございます。
 私は、医療は背広のようなものだと思うことがあります。会社勤めに着用でき、国際社会などでも正装として用いられております。この機能富んだ衣服を、誰
にでも着せてあげたいと思います。しかし人間は、顔・形、肌の色も違えば、生まれ育った環境も違います。特に経済の格差、気候風土の異なりは、背広の普及を妨げております。貧しい国では、エリートしか着用出来ません。暑い国では、慣れた民族衣装のほうが過ごしやすい。服装選びは、こうした経済・文化の違いの上に成り立っています。医療の決定も、これに似ているようであります。

 日本は、仏教が伝来しました六世紀の中盤に中国の医療を導入しながら、死生観をインドに求めることが出来ます。肉体は大地に戻り、魂は仏のもとへ行く、と言う哲学です。しかし、十九世紀の初頭、今から百八十年ほど前にオランダの医療を導入し、さらに下って約百三十年前には、多くの留学生をドイツへ派遣しました。ここで日本は、西洋医学が主流になりました。ここ六十年間は、アメリカに学ぶことが盛んになっております。そして滋養と強壮を中心とした漢方は、西洋医学の補助的な存在になりました。

 近代化が始まるまでの日本は、幼児死が多発しておりました。医療が身近にあった天皇家や将軍家でも漢方が主流でしたから、幼児死は避けられませんでした。それが西洋医学の導入によって、平均寿命が大変に伸びました。とりわけ公衆衛生学の普及は、日本の統治下に置かれた台湾や韓国にも影響を与えました。台湾・韓国両国の平均寿命が日本の統治下になって向上したことは、西洋医学が優れている証でありましょう。

 ところが、このところ日本では、漢方を再認識する動きがみられます。西洋医学の思想は、あくまでも「引き算」であります。悪いところがあれば、それを除去する。そうすれば健康を取り戻すことが出来る。これが西洋医学でありましたが、どうもそうではないらしいと気づき始めた、と言うのが今日の日本の医療であります。体の弱い部分を増強することによって病気を治す。つまり西洋式の「引き算」から、中国式の「足し算」に変わってきたことを表しております。

 とりわけ『脳死と臓器移植』と言った現代医療の最先端に対する意識調査をしましたところ、日本人の「死生観」に大きく影響されていることが判明しました。つまりは、西洋の医療だけではなく、民族性も加味しなければならない、と言ったことが議論されるようになったのであります。それまでの医療は、ただひたすら治療を最優先し、それが患者のためになると確信して進歩・発展を遂げました。しかし、どうもそればかりではなさそうだ、と言うのであります。

 最初の動きは、ガンの告知でした。四十年前、日本のガン治療の現場では、次のような「実例」と称するエピソードが真剣に語られました。一つは、ある高僧がガンに罹った。自分は、何を宣告されても驚きはしない。病名を教えろと弟子に命じます。悟りを開いた偉い師匠でございますから、「それでは」と、ガンを告知したところが、動揺して食事も喉を通らず、死期を早めたというものです。二つは、ある高名なガン専門の教授がガンに罹ります。おおよそ自覚症状からガンと自己診断をしているが、本当のことを告げて欲しいと弟子の専門医に頼みます。教授がそう仰るのであればと、病名を告げます。ところが教授は、動けるうちにと、全財産を使い果たして家族が困った、と言うエピソードであります。ともにガンの告知は、絶対にしてはならないと言うものです。

  一方で医師は、次のように説明をつけ加えます。開拓者精神に富んだアメリカ人は、精神的に強い国民である。また、死期が近づきますと、アメリカの病院ではチャプレンが病室にやってきて懺悔をさせますから、いずれ病気が深刻な状態にあることを知る。そのためにも病名を事前に告知する必要がある。しかし日本では、知らせて患者を悩ませるよりも、知らないまま死なせてあげるのが親切、と言う。医師の言葉は、絶対的な権威をもって受け止められました。そのために担当医から説明された家族は、病名を隠すために大変な苦痛を強いられたのであります。

 四十年前の当時、日本の病院は、患者の家族同士が交流することを好みませんでした。家族が生半可な医学情報を交換することは、医療に支障をきたすと言う理由です。従って患者の精神的支援をするボランティア組織も育ちませんでした。それは、医療の閉鎖性に原因がありました。病気について患者やその家族は、知る必要がない。知ってどうなるのか、と言った医師の歪んだ誇りがあったからです。ところが三十年ほど前と思いますが、アメリカから「患者の知る権利」が伝わり、同時に患者の「QOL」、クォリティー・オブ・ライフの考え方が医療の中で議論されるようになりました。そして数年して、「インフォームド・コンセント」が導入されるようになりました。

 こうした医療の情報公開は、周辺組織の育成を促しました。ボランティアが医療援助の募金活動をしたり、音楽や読書、話し相手をする支援活動も頻繁に行われるようになりました。そこに「脳死による心臓移植」の問題が提起されたのです。日本から多くの患者さんがアメリカやオーストラリアの病院で心臓移植をして参ります。これが海外で批判を浴びたのです。海外にも心臓病で苦しむ患者さんがいる。それをお金で横取りする行為は許されない、自国でやろうというものです。どこで日本でも移植法の整備が急がれたのであります。これが二十年ほど前のことでございます。時代は、ここで急旋回いたします。

 私が地方の国立大学の医学部で医学原論の講座を持つようになったのは、ちょうど十八年前でございましたが、その翌年春に、政府の脳死に関する臨時調査会が組織され、医師、法律家、哲学者ら各界の専門家を集めて議論するようになりました。残念ながら宗教界からは、一人も参加しておりませんでした。日本では、宗教者は、患者の死後を担当する職業として認識されておりましたから、協議に参加する必要がない、との判断であったかも知れません。しかし、地方とはいえ、患者さんの殆どが仏教徒であるところから、これを治療する側が認識しておく必要があろう、と判断されたのであります。

  脳死の問題は、ほぼ九年かかって協議され、一九九七年にようやく脳死法が成立しました。そこで私は、独自の設問を設けて日本人の意識調査を致しました。今回のセミナーのテーマ『仏教徒の観点でのヘルス・ケアの決定』に関わって参りますから、これを優先的にお伝えしておきます。余談ですが、法律が施行され、直ちに脳死による心臓移植が行われるかと思いましたところが、意外なことに臓器提供者が少なく、また各メディアが大々的に報道して、患者さんのプライバシー問題を提起するに至りました。それぐらいに日本では画期的な法律だったのです。

  調査は、臓器移植法が成立された一九九七年三月と六月に行いまして、調査対象は、大体十歳代の後半から六十歳、一部に七十歳代の方があります。ばらつきはありますが、各年代に百名あまりの方がおられ、一般人六九六人、医学生一六二人を対象としております。個人の宗教は、「仏教」と「特になし」が半々と考えてさしつかえありません。家の宗教は、およそ八二パーセントが仏教でございます。男女の比率は、男六十パーセント、女四十パーセント。死生観を構成する因子などを設定いたしまして、それぞれの設問によってアンケート形式で集めましたものを分析しました。

  まず、私を悩ませたのは、次の数字です。脳死の状態、俗に植物人間となった状態を死と判定するか、又はどちらかと言えば死としても良いと答えた人は、六〇・九ーセント。残りの三九・一パーセントの方が死と判定してほしくない、と答えております。この数を記憶に留めておいてください。これを大体、賛成を六割、反対を四割としておきましょう。

  脳死と判定されました。当然に臓器の提供をしてくださるかどうか。医療側としても臓器提供者の数が少ないですから、心臓やら腎臓、角膜といった臓器が欲しいわけです。現在の法律では、生前意思がない場合には、提供は受けられませんが、調査でありますから、生前意思のある場合と、ない場合の設問を作ってみました。

 まず、生前意思があった場合は、どうでしょう。「はい」と答え た人は、
 一般人 七四・四パーセント
 医学生 九三・四パーセント

 法律が施行された直後の調査ですから、現在では、この数字もかなり前後しているだろうと考えられますが、大半の人が賛成しております。

  では、生前意思がなかった場合は、どうかと言いますと、「は い」と答えた人は、
 一般人 三三・一パーセント
 医学生 四一・四パーセント

 かなり減ってまいります。しかし、まだ、この時点では、脳死による移植手術は行われておりませんので、数字にも変化が見られると思われます。アメリカでは、家族の同意があれば提供が可能ですので、やがて日本にもその時代がやってくると思われますが、この時点では、かなりの日本人が躊躇しているものと考えられます。

 では、あなたが臓器移植を受ける必要性が生じた場合、提供を受 けますか。「はい」と答えたのが、
 一般人 六一・八パーセント
 医学生 八二・五パーセント

 この数字をどのように読むかです。ドナー・カードに登録した人が、臓器の提供を進んですると答えながら、臓器を貰う側に立ちますと、さほど積極的に希望しないと読めますし、十人に六の人が希望しているのだから、やや積極的とも読めます。ただ、医学生たちの医学に対する信頼は厚いものと思われますので、八二パーセントと高い比率で移植を希望していることが分かります。

 設問は、四十八項目に分かれておりますので、すべてをご紹介することはできませんが、こうしたパーセンテージを、ただ数字だけではなく、答えにこめられた真意を読み取る必要があるわけであります。

 角度を変えてみましょう。

 設問で、死後の世界は存在すると思いますか。「いいえ」と答え た人は、 十六・九パーセント

 どちらかと言うと存在しないと答えた人は、
 二四・六パーセント

 これは、一般人と医学生をトータルにした数字です。逆に、必ず 存在すると答えた人は、
 二〇・五パーセント

 どちらかと言うと存在すると答えた人は、
 三八パーセント

 ちょっと意外な数字がでました。約六割の人が死後の世界を何ら かの形で信じているように読み取れます。

 これに関連して、死んだ後にも遺体に霊が残ると信じますか。積 極的、消極的ながら、「はい」が、
 四〇・九パーセント

 慰霊塔・慰霊碑・墓石に霊が宿ると思いますか。積極的、消極的 で「はい」が、
 五二・五パーセント

 先祖から受け継いだ肉体を傷つけることは、良くないと思います か。「はい」が、
 七二・二パーセント

 葬儀の際に肉体が完全な形でなければいけませんか。「はい」が、
 六〇・三パーセント

 先祖の墓は、守らねばなりませんか。「はい」が、
 九二・五パーセント

 これぐらいに致しますが、これらの数字には大きな矛盾があります。先程の数字を思い出して下さい。脳死を認める人は、六割、残りの四割の方が認めない。生前意思のある場合、臓器を提供すると答えた一般人が七四・四パーセント、医学生が九三・四パーセントでしたが、その数字の中に、先祖から受け継いだ肉体を傷つけることは、良くないと思う人が、七二・二パーセントいました。おかしなことに、約八割の人が臓器を提供しても良いと答えながら、七割以上の人が肉体にメスを入れてはいけないと答えております。では、どうやって臓器を取り出したら良いのか。これは、決して数字の矛盾ではありません。複雑に揺れる日本人の心の揺れなのです。

 ここに日本人の死生観が現れております。仏教では、私たちは「無常」の世界に生きている、と教えております。万物は、常に変化をする。山や海も変化するのでありますから、当然に肉体や生命も「無常」であると考えております。私が所属する真言密教においても、肉体と精神は、すべて大日如来が姿を変えた如来そのものと教えておりますから、その教えに立脚すれば、臓器のやりとりをしても何ら問題はありません。死んでしまえば、肉体は大地に同化し、精神は虚空に戻るのですから、臓器の移植も是認されます。しかし、どうも心のどこかに引っかかるものがある。すっきりと、「はい」と答えることができない何かが存在しております。

 また仏教では、「生死一如」だと、生まれることも死ぬことも一緒ではないかと考えます。そうであれば、脳死だろうが自然死だろうが、さほどの違いはない。ところが日本の刑法にもありますように、遺体遺棄とか遺体損壊などは、立派な犯罪行為となるわけです。死体を棄ててはいけない、傷つけてもいけないと言った法律には、何かの根拠があって成文化されたものです。その何かを探ってまいりますと、儒教の影響をはっきりと見ることができます。

 調査における儒教の因子は、先祖崇拝、慰霊のために死者の魂をこの世に呼び戻し、肉体に結び付けて死者を蘇らせる「招魂再生」を基本としております。そこには、魂の戻るべき遺体を重視し、同時に、先祖から受け継いだ身体を大切にするものです。

 また、先祖崇拝は、仏教でも教えております。今日、私たちがこの世に存在しているのは、先祖の恩恵をこうむっている。その先祖の霊が地獄に迷っていては申し訳ないから、死後、何年もの間、追善供養をいたします。仏教では、あくまでも霊を中心に考えております。成仏できたかどうか、霊界に迷っているのではないかと心配します。

 儒教では、墳墓とか慰霊の場所を求める風潮があります。時には、肉体をミイラにして保存したりもします。これが儒教的先祖崇拝になっております。慰霊塔・慰霊碑・墓石に霊が宿ると思うのも、五二・五パーセントという数字に現れております。この数字は、かなり儒教の影響を受けているものと評価してもよろしいでしょう。仏教だけならば、何の問題もなかった臓器提供も儒教の教えが邪魔をしている。では、儒教を取り除けば良いではないか、となるところですが、そうは参りません。

 

 元来、日本の宗教は、混ざり合っております。仏教と儒教、そして道教は、千二百年前から混ざり合って色々な文化を作ってきました。これを「仏教」と総称しているだけで、腑分け致しますと、個々の特徴を読み取ることが出来ます。ですから、混じり合ったものが、その国の宗教と解釈しなければ、国民のコンセンサスとはなりません。現に、脳死による臓器移植法が施行されて八年を迎えますが、症例が三十に満たないのです。法律が厳しすぎるとの医学界の声がないわけではありませんが、国民は満足しております。こうした現状を踏まえて『仏教徒の観点でのヘルス・ケアの決定』を考えてみましょう。

 最初に仏教の信条について述べます。仏教では、生命の誕生と死は、同じだと言う思想があります。人間は、「生老病死」の四つの「苦」を持っております。「老病死」の三つは、誰もが簡単に理解出来ます。しかし、生命の誕生がなぜ「苦」なのかが分からないのです。しかし、それも「無常」という教えがあり、誕生とともに死に近づいて行くことになるから、「苦」の始まりだと考えるのです。この「無常」を諦観と呼んでおります。生まれたら死ぬのが、「公理」と言うわけです。

 次に信条と習慣による健康とケアの関連について述べます。人間には欲望があります。若くありたい、長生きがしたいと言う生存欲から「無常」の定めに逆らって生きようとします。これには、もう一つの思想が加わります。なぜ人は、生存し続けたいと願うのか。その解答が用意されております。真言密教では、生命と肉体を大日如来から授かったものと考えます。その生命は、永遠に存続します。だから永遠に存続し続けようとします。つまり生命は、自ら存続する宿命にある。消滅出来ないのです。ところが肉体は、有限です。いつかは滅する宿命にある。そのジレンマに人間は、悩み苦しむわけです。

  健康は、肉体的な健全性を指しておりますが、同時に霊的な信仰も含まれております。私の寺へお参りに来られる方は、若い方からお年寄りまでおられます。殆どの方は、自分と家族が健康でありたいと祈っておられます。しかし、現代医療を否定しているわけではありません。現代医療を受けながら、精神的な充足感を求めて来られる。奇蹟を願う人もいます。医療にプラスαを願っておられるのです。

  ここで仏教の医学に触れておきましょう。二千六百年前の古代インドには立派な医療がありました。今日の病院の科目の殆どがあり、ないのは放射線科ぐらいのものです。そこにギバと言う有名な外科医がいました。その頃、インドで鉄のメスが作られました。それまでの金や竹のメスよりもはるかに良く切れる最先端の医療機器であります。お釈迦さまは、このメスをギバ以外の外科医に使用を禁じました。私は、この資料に突き当たった時、色々な理由を考えました。このような便利な鉄メスを、なぜギバに限ったのか。

 禁ずると言うことは、すでに医療界で使われていたのです。ギバは、脳の手術もしていたようですから、かなりの名医だったのでしょう。しかし、衛生観念の乏しかった時代ですから、折角の近代兵器も、使う人によって生きる可能性のある患者も殺してしまいます。ところが消毒法に卓越したギバは、手術の成功率が高かったに違いありません。医療は、医師の研究のためではなく、患者の幸福の実現にある。折角、助かる可能性のある患者を殺しては、医療の意味がありませんから、お釈迦さまは、他の医師たちに使用を禁じた。そう考えますと、現代の最先端医療についても、同じことが言えます。

  折角、手にした最先端の医療機器を放棄する。もちろん、研究してはいけないと言うのではなく、必要以上の治療は、医療環境が整ってからでも遅くはないのです。これを先走って功名争いのように実施したのでは、ムダに患者を殺すことになるから、これを許してはならない、とお釈迦さまは考えられた。今日、医療の名のもとにあらゆる冒険的行為が散見できます。最先端と言うと、不可能を可能にする魔法のような響きがありますが、禁じ手を設けませんと、社会不安をもたらします。勇気をもって捨てるべきは捨て、用いるべきを推進する判断基準を国際的に決める必要性があろうかと思います。

 さて、本論に戻ります。

 仏教徒の信条と習慣によるヘルス・ケアの重要な決定への影響については、先程、脳死による臓器移植の調査でも述べましたが、補足的に申し上げなければならないことがあります。それは、医療制度です。日本は、国民はみな健康保険に加入しております。従って通常の医療は、自己負担が一割、ないしは三割で誰もが受けられます。この制度は、医療の選択幅を大きくし、同時にほぼ医師の勧める医療を受ける結果になります。患者は、自己決定権を持たなかったのです。もし、金額が自己負担であったならば、経済的な理由、ないしは信仰の理由をもって選択することになるでしょう。幸いにも日本人は、そのような状況に置かれてこなかったのです。

  しかし、臓器提供のような自己決定をする場合には、意識するしないに関わらず、日本人の信仰に左右されるわけです。だからと言って仏教徒は、現代医療を否定してはおりません。「死後の臓器提供」についても、重要性を十分に認識しております。しかしながら、最先端医療の恩寵にあずかるのは、自分のためではないとも考えます。家族のためならば、最先端の医療を求めますが、自分のためではありません。従いまして、日本における臓器提供者の登録件数は、おそらく欧米と較べてかなり低いものと考えられます。

  日本で生体間移植が脳死によるそれを上回っているのは、他人に迷惑をかけたくないと言う心理が働いているからです。それは、信仰とはまったく無関係と言えます。むしろ家族を愛する心情によるものと考えられます。日本は、崩壊しつつあるとはいえ、家族を社会の最小単位と考える習慣があります。離婚率が欧米並になり、親のいない子供が中心をなす社会になれば変化するかもしれませんが、日本における個人主義は、成長過程で教育されておりません。これが将来に多大な影響を及ぼすだろうと危惧してはおりますが、真剣に論議されることは、今もってありません。

  人工受精や生殖技術の導入につきましても、信仰の上からは何の障碍もありません。しかし、日本の厚生労働省は、これらの研究がコピー人間の誕生、クローン人間に発展することを恐れて、かなり厳しい制限を求めています。これは、社会問題であって、それに宗教が介在する余地は、残念ながら日本にはありません。ですから人類が享受する幸福と、社会不安とのバランスから生殖医療を危ぶむ現象が生じております。もっとも日本では、少子化が社会問題になっており、夫婦が生む子供の数が一・四人という状態です。政府は、人口の減少に神経を尖らせておりますが、妙案はありません。ここに生殖技術を求めるかと言いますと、むしろそれが金銭で取引されることに難色を示している状況です。

 日本では、人工受精よりも堕胎が潜在した社会問題であります。青少年の堕胎が闇で行われる。その実数は、把握できない状態であります。戦後六十年、フリー・セックスの文化が欧米から入りまして、青少年の性モラルが低下しております。ここに宗教が介在すべきでありましょうが、戦後の日本は、占領政策によって宗教教育を禁じられました。私が大学医学部に招聘された時点ですから、周辺の国公立大学では消極的でした。今日では、十五の国立大学で私の講義を聞くことが出来るようになりましたが、日本では、私一人だけと言う有り様です。仏教では、自らの生存のため以外の理由で生命を殺すことを禁じております。もっと多くの僧侶がモラル教育をすれば、正しい性の在り方が示されるでしょうが、まだ宗教に対して閉鎖的であります。

  人が死期に近づいた時の仏教徒の心情についてお話します、死を喜んで受け入れるかと申しますと、そうではありません。むしろ「諦め」の状態と言うべきです。QOLの問題は、近年の思想でありまして、それまで何の手だてを講じてきませんでした。お釈迦さまは、死期の近づいた患者と、極楽へ導いて下さる仏さまとをヒモで結びまして、死後の安楽を約束しました。死は、恐れる存在ではありません。しかし、不安がある。それを救う手段として、仏教には、早くから「癒し」の哲学がありました。その「癒し」が現代医療に最も欠けている部分です。私は、形は変わっても、こうした「癒し」を積極的に導入する必要性があると考えております。

 日本のホスピスは、ここ二十年のうちに随分と出来ました。最初、キリスト教による施設から出発しまして、今では仏教各派の施設がございます。ある程度成功しているのは、鎮痛薬などの向上と、過剰医療への反発があるからです。ここに尊厳死を望む声も国民の間にあるようですが、私は、過剰な人工呼吸器、栄養補給などの使用に対する拒否であって、生きる積極性を放棄したとは考えません。私の寺に、末期ガンの大学生が弟子入りしたことがあります。病院の医師からあと数ヶ月の命と告げられた彼の行は、真剣そのものでした。その行の場に、たまたま有名なスポーツ選手が数名おりまして、死に瀕した学生さんに逆に励まされ、強烈な生きざまを示したことがございます。生きると言うことは、このような壮絶なものかと、青年から教えられたのであります。

 人間は、ただ生命の永遠を願うものではありません。「無常」が世の習いですから、いずれ死ぬと分かっております。死は、人間の四つある「苦」の一つでありますから、悩まないわけがありません。しかしお釈迦さまは、死を超越して積極的に生きることを勧めておられる。その積極的に生きる目標は、自分に与えられたもの、例えば、財産、知識、労力と、色々と人によって違いはあっても、それを他人に施して、この世を極楽にすることだと教えておられます

 仏教における「輪廻転生」は、生命の永遠性を説き、現世における善い行いを奨励する教えであります。「転生」とは、人間の生命が、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界を流転することです。永遠に続くあなたの生命が、次の世にブタに生まれたらどうするか、と。来世に地獄に生まれたら、永遠の責め苦を味わうことになるが、どうするのかと説いて、現世における善行を勧められたのです。本当の生き方は、「輪廻」の「輪」から脱して、仏の世界、永遠の楽土に生まれることを最上の幸福としております。これは、古代エジプトや古代中国の「再生」思想とは、まったく違ったものです。来世を「無」とすれば、この世は好き勝手をして地獄と化す。そのような世の中に生まれたあなたは、本当に幸福を享受していると言えるのか、と諭されたのです。

 私たちの宗祖弘法大師は、次のように教えておられます。人間は、生まれる前から仏であった。たまたま現世に生まれて自分の本性を忘れているが、死すれば又、仏の世界に帰る身である。だから知れ。あなた自身が仏なのだ、と。この身が仏だと知り、仏となってこの世を救うのが仏の道に叶っている。少しぐらいの好意は、誰でも出来る。しかし、究極の救いは、あなた自身が仏となり、仏の心をもってこの世を極楽にするのだ、と教えておられます。そこで私は、医学を学ぶ日本の学生に、やさしい態度、心をこめた正しい言葉づかいで患者さんと接することから医療が始まると教えております。アメリカとの違いは、いかがでしょうか。

 ご静聴をありがとうございました。

                           合  掌

 
  HOME                                     TOP
Copyright 2011 SIS